現在、広島県立美術館で開催中の秋の所蔵作品展 名品の森I「中央アジアの刺繍と衣装 #乙嫁たちの手仕事2」。同館は、日本で有数の中央アジアの工芸品のコレクションで知られています。中央アジアの手工芸の研究者であり、同館で学芸課長を務める福田浩子さんに連載コラムをお願いしました。今回は、近年人気が高まっている刺繍布スザニについてです。ぜひコラムを読んで、美術館にお出かけください。
広島県立美術館が中央アジアの工芸品を収集した頃、国内において、刺繍布スザニはまだ「知る人ぞ知る」的な存在でした。しかし、2008年から連載が開始された森薫さんの『乙嫁語り』の緻密で美しい絵と穏やかなストーリーによって一気に注目を集め、さらに近年の“かわいいブーム”の波に乗り、広く知られるようになりました。さらに、カザフスタンは2017年1月から、ウズベキスタンは2018年2月から30日間ビザ免除となり、日本から行きやすくなったことも追い風となっています。筆者にとっては、マイナーな時代から応援してきたアイドルが全国区デビューして活躍する姿を見守っているような気分です。
スザニは、主にウズベク人やタジク人によって制作され、中央アジアの広い地域で壁掛けや掛け布、礼拝布として用いられてきました、と説明を始めることが多いのですが、さて、中央アジアとは、一体どこなのでしょう?
中央アジアの定義はいくつかに大別されます。広義では西はカスピ海の東側から東は中国の新疆ウイグル自治区、北はカザフスタンから南はアフガニスタン付近まで、また、チュルク人(民族)の土地という意味のトルキスタンと呼ばれることもあります。現代の中央アジアの文化は、旧ソ連領中央アジア、中国新疆ウイグル自治区、そしてアフガニスタン北部の3つに分けて捉えると理解しやすいと私は考えています。
旧ソ連領中央アジアは、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの5カ国、ロシア・ソ連時代が100年近く続いたことで言語もロシア語が浸透し、各国の民族語や文字のラテン文字化を推進する現在もソ連時代のいろいろがまだまだ感じられます。また、新疆ウイグル自治区は、中国領となったことで中国文化の影響が強く働いています。さらに、アフガニスタン北部はソ連からも中国からも支配されなかったため、民族衣装や装身具などを含む伝統的な生活様式が色濃く残っているようです。もう少し情勢がよくなったらウズベキスタンのテルメズから橋を歩いて渡ってアフガニスタン北部の様子を見に行きたいと思っていたのですが、この夏のアフガニスタン政変により遠のいてしまいました。
さて、前置きはこの辺までとしましょう。スザニはペルシア語で「針」という単語の派生語で、刺繍または刺繍したものを示します。例えば約2.5×1.7mという、ベッドカバー程の大きな布で、掛け布、壁掛け、間仕切りとして使用します。「絨毯」と誤って表示されることもありますが、ご存知のとおり絨毯でもキリムでもなく、摩擦に弱い刺繍ですから、床に敷いて使うことはほぼありません。しかし、お祈り用のジャイナマズは床に敷き、中央のミヒラーブを象ったアーチ型のスペースに上がって祈祷を行います。ナマズはお祈りのこと。新婚用の寝具はルイジョ、こたつ掛けの刺繍布はサンダルプシュのように用途により呼称もさまざまです。スザニは刺繍を指すと言いながら、衣装や袋物など刺繍が施されるものは際限なく、ここでは大きめの布タイプの刺繍布をスザニと考えることとします。
スザニの多くは蔓草や花々、果物といった文様が表現されています。人物や動物の文様はイスラム教の教えにより少ないものの、主文様の隙間に隠れていることもしばしば。天空に輝く月の光を表現したオイ・パラックと呼ばれるスザニは、満天の星空と降り注ぐ光への畏敬の念を感じてしまうのは深読みでしょうか。
かつてスザニは次のように作られてきました。作りたい大きさに合わせ、数本の布に下図を線描きし、刺す糸の色名を文字で記した布を一族の女性たちで分担して刺繍します。最後に刺し終わった数本の布を縫い合わせて一枚のスザニに仕立てます。布は木綿や絹が多く、木綿と絹の交織(経糸と緯糸を異なった種類の繊維で織ること)も見られます。刺繍糸はもっぱら絹ですが、金糸や銀糸を使った豪華なものやウールを併用したスザニも散見できます。
昔、花嫁は数枚から十数枚のスザニを持参する習わしのため、女の子は小さい頃からスザニを準備し始めました。刺繍にはたいへんな労力と時間を要しますから、上述のように複数の人たちが分担するのですが、刺繍が得意な人ばかりではないでしょうから、苦手な人にはきつい仕事だっただろうと勝手に推察したりします。時には刺繍糸の色が突然変わったり、刺繍の刺し具合が一枚の中で不均一だったり、あるいは下図の線を無視してしまったりと、細部を観察すれば何か物語を読み取れそうな気がしてきます。
現代ではスザニを自ら作らず、買うことが多くなりました。かつてのように自身や家族のためでなく、内職として刺繍するようになったことでスザニは商業的に息を吹き返しています。自分や家族のための制作と販売のための制作は、材料や手間、時間といったコストの概念や気持ちが異なります。従って、スザニのあり方も変わってきました。かつてとは違った意味合いを併せながらも、それでもスザニは伝統文化の再評価、民族の誇りとしての地位を保ってゆくことでしょう。
大阪市出身。中央アジア工芸史、東西文化交渉史。現在、広島県立美術館学芸課長。同館は、ウズベクとトルクメンを中心に刺繍布や民族衣装、インドの古更紗など、アジアの工芸品を多く所蔵・展示している。とりわけトルクメンのシルバー・ジュエリーは750件を数え、日本最大のコレクション。
■広島県立美術館 秋の所蔵作品展 名品の森Ⅰ「中央アジアの刺繍と衣装 #乙嫁たちの手仕事2」
2021年12月24日(金)まで開催中。