アメリカ・テキサス州で、シルバージュエリーやビーズワークの制作しながら、ネイティブアメリカンのアートやジュエリーを紹介している「Earth Lodge」船木卓也さん。前回のニューヨークでのネイティブアメリカンのアートとの出会いに続き、今回は、ネイティブアメリカンのフラットヘッド自治区のカレッジ留学時のお話しです。
1987年、僕は念願叶ってネイティブアメリカン部族自治大学、サリッシュ・クーティナイ大学(Salish-Kutenai College ) に入学することになりますが、これがなかなか簡単にはいきませんでした。
現在のようにインターネットなどない時代です。大学とのやりとりは郵便で行うわけですが、大きな問題となったのが学生ビザの取得です。まず、大学の担当者に「外国人が入学するにはビザが必要だ」ということを僕が説明するところから始めなければいけなかったのです。笑い話のようですが、ネイティブアメリカンの居留地にある学校に海外から(しかも日本から!)留学生が来ることなどあり得なかったわけですから、こんな基本的な手続きの説明をしなければならない上に、それが郵便でのやり取りなのでとにかく時間がかかるわけです。
しかし、これまた幸運なことにサウスダコタの「知人の知人」がその居留地にいたということで、その方にわざわざ学校に行ってもらい、担当者と直接話しをしてもらうことができました。後で聞いて申し訳なく思ったのですが、学校の担当者は最終的に僕のビザの申請のために何時間もかけてモンタナの州都である街まで運転して事務処理をしてくれたということでした。
サウスダコタの時も同じですが、とにかく、いつも窮地で運よく助けてくれる人が現れる。これは本当に感謝しなければなりません。
僕が2年間滞在したフラットヘッド居留地はモンタナ州の西部に位置しており、とても自然が雄大で美しい所です。サウスダコタは平原ですが、モンタナ西部はロッキー山脈の流れにある山地で、グリズリーベアやヘラジカなどの野生動物も生活環境を共有するような雄大な自然が残っています。
この居留地はフラットヘッド(サリッシュ)、クーテナイ、そしてポンダレイの3つの主要部族によって自治されていて、この中にある大学に僕は留学したわけですが、では部族自治大学とはどういうものかというと‥‥。
ご存知のようにネイティブアメリカンの文化は、アメリカ政府が行った同化政策によって消滅の一途をたどっていました。土地を奪われ、文化を奪われ、自分たちのアイデンティティーが消えていく。それに危機を感じた部族のリーダーが、自分たちの伝統文化を若い世代に学んでもらいたいという意向で、1970年代の初めに居留地に住む人達を対象とした学校を作りました。
現在ではほとんどの部族に2年制の自治大学があり、部族の言語、歴史、伝統 文化などを学べるほか、基本科目の取得のための英語、数学などのクラスもあります。また職業訓練の科目を持つ学校も多く存在しています。
僕が受講したのは、ネイティブアメリカン学で、この過程で伝統工芸クラスのひとつであるビーズワークを受けたのですが、大げさに言えばこれが運命を変えてしまいます。
前回も書きましたが、NYCに住んでいた時に博物館で見た平原インディアンのビーズワークに魅了されて以来、ビーズワークというものはネイティブアートの中でも特別なものと感じていました。でもその時には、まさか自分がそれをやることになるなんて思ってもみませんでした。 ビーズワークを学んでみたいと思ったのは、あることがきっかけでした。
僕がモンタナのフラットヘッド居留地の学校に通い始めた当初、レネイという名の女性の家の一室を借りていました。レネイの友人夫婦が、居留地から南に1時間ほどのところにあるミズーラという街のモンタナ大学で学んでおり、週末にときどき遊びに来ていました。旦那さんのデルソンはオレゴン州のウォームスプリング居留地出身、奥さんのローリーはアイダホ州のフォートホール居留地の出身でした。
とても良い人達で、僕のことを大変気に入ってくれ、インディアン文化にまつわるあらゆる面白い話を聞かせてくれました。また、遊びに来るたびにキーチェーンやチョーカーなど、ビーズワークの小物をいろいろと持ってくるのです。今思えば、おそらくこちらのトレーディングポスト(部族の手工芸品などを扱うショップ)に小遣い稼ぎとして売るために持って来ていたのでしょう。
奥さん、ローリーの出身地、フォートホール居留地はビーズワークが大変盛んで、モンタナでは見ないような見事なビーズワークがいろいろとありました。いろいろ見るうちに、居留地によってビーズワークのレベルが高いか低いかがあることを知ったのです。
フォートホール居留地のほか、レベルの高い居留地として有名なのは、モンタナのクロウ居留地、オレゴンのウォームスプリング居留地などが挙げられます。また、サウスダコタのパインリッジやローズバッドに行けば、「さすが」と思わずうなるようなラコタ独特のデザインを施したビーズワークを見ることができます。その反面と言っては失礼ですが、僕の行ったフラットヘッド居留地のレベルは余り高い方ではありませんでした。
デルソン達が持っていたビーズワークの水準が高いということは一目瞭然でした。
そのビーズワークの素晴らしさを称賛し、デルソンに「自分もビーズワークをやってみたい」ということを伝えると、彼はニヤリと笑って「It‘s tough work !」と。「君にできるわけがないけど、やってみなよ」というようなニュアンスで返事をするのです。
これが結構良い動機付けになったと思います。僕はそういうのに燃えるタイプだと思います。
ここから僕のビーズワークへの道が始まりました。次回は師匠となるジョアン・ビッグッグクレーンとの出会いについてお話したいと思います。
1957 年島根県松江市生まれ。1981 年にNYでネイティブアメリカン文化に出会い、サウスダコタ州ローズバッド・スー・インディアン居留地へ移住。ネイティブアメリカン学を1年間学んだ後、モンタナ州フラットヘッド・インディアン居留地にあるサリッシュ・クーティナイカレッジに留学。居留地滞在中にインディアンフルートを習得。またサリッシュ族の伝統芸術家、ジョアン・ビッグクレーンにビーズワークを師事する。帰国後、98 年にサイト・アースロッジを開設。現在アメリカ、テキサス在住。You Tubeで、ビーズ制作の過程なども配信している。
Earth Lodge
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