COLUMN

連載:ネイティブアメリカンのアート

Vol.1 ニューヨークからネイティブアメリカンの⼤地へ

May.14.2021
written by 船⽊卓也

「Earth Lodge」というウェブサイトで、ネイティブアメリカンのアートやジュエリーを紹介している船⽊卓也さん。現在、アメリカのテキサス州在住。⾃らシルバージュエリーやビーズワークの制作もしています。ニューヨークから、ネイティブアメリカンの⼤地へ。船⽊さんとネイティブアメリカンアートについての連載です。

 

最初はミュージシャンを目指してNY へ

僕とネイティブアメリカン⽂化との関りは早いもので40年近くが経とうとしていますが、まずはその辺の流れから書かせて頂きます。僕は⼤学を出るとアメリカはNYC に遊学旅⾏し、そこから⻑期不法滞在者となりました。今なら考えられない事ですが、80年初頭には旅⾏者がそのまま不法滞在すると⾔う事は普通にありました。

⼀応、⾃称ミュージシャンの端くれだった為、特にジャズミュージシャンにとってNYC 滞在は必⾄だと思っていました。それで最初から「ビザ無し不法⻑期滞在」を⽬的として渡った訳ですが、あの時代は良い悪いは別とし、まだ法的に緩い部分が沢⼭ありましたし、「若者よ、放浪の旅に出よ」的な意識もまだ⾼かったように思います。
実際、NY で知り合った⽇本⼈には⾊んな輩がおりました。僕のようなミュージシャン、世界を渡り歩いているボヘミアン、絵描き、役者、空⼿家、職⼈などなど、ユニークな⼈が沢⼭いたのを覚えています。

 

ミュージアムで出会ったネイティブアメリカンの世界

そんなNYC での⽣活の中、ある時、訪れたアメリカ⾃然史博物館とアメリカンインディアン博物館で⾒た展⽰物が運命を変えてしまいました。⾃然史博物館には平原インディアンの特別展⽰があり、昔のアラパホ族、シャイアン族、スー族の⼈達が使っていたものが展⽰されていたのですが、とにかく、展⽰物が作り出す世界に圧倒されました。バッファローの⽪に施されたビーズによる美しい幾何学⽂様に、不思議ですが、何か初めて⾒るのではないような親近感や郷愁感も湧いてくるのです。

 
アメリカンインディアン博物館は、今はワシントンDCに移りましたが、当時は167丁⽬でしたか、ハーレムにありました。そこにも⾜繁く通って半⽇を過ごし、ただその展⽰物が作り出す雰囲気に浸っていたものです。僕は島根県松江市の出⾝で、⼦供の頃は農家だった家の納屋で良く遊んだものです。納屋にはその昔使っていた古い農具やら筵やらが保管してありましたが、何かそのようなアジア的空気とダブるものがあったんですね。昔の⽇本が持っていた空気と同じような空気を感じ、とても⼼地良かったのです。

 

現在のアメリカンインディアン博物館(ワシントンD.C.)

またネイティブアメリカンの容姿⾵貌も我々⽇本⼈と似ている事もあり、⾃分の中で同族意識みたいなものが強く湧いて来たんです。また、これは⼀番重要な点でしたが、彼らの⾃然観、世界観にとても共感しました。⼈間は⾃然の⼀部として、またその⾃然の世話⼈として存在しているということ。ネイティブにとって動物は単なる動物ではなく、動物と⾔う⼈であること。だから命を取る際には儀式で許しを請い、霊を故郷である霊界に送り届けるという優しさ、謙虚さ。そして誇り⾼き戦⼠であること。


そんな⼈達が今もこの現代アメリカで⽣きている。今でも伝統的な世界観は⽣き続けているのだろうか?平原部族が今でも⽣きている⼟地、⾃然を体現したい、空気を共有したいと⾔う気持ちが⾼まり、1984年、僕はサウスダコタにあるローズバッド居留地に⾏くことを決意しました。

 

サウスダコタ、そしてモンタナへ。必然的な出会い

サウスダコタ・ローズバッド居留地にて

若いからできたことですが、何の脈略もないのに、居留地内にある部族⾃治⼤学に電話して、「⾃分は⽇本⼈で、貴⽅たちの⽂化をぜひ学びたいのだが、⻑期滞在できる所はないだろうか?」と唐突なお願いをしたのです。当然、最初は断わられてしまいましたが、僕の決意は固く、諦めずに2度⽬の電話を⼊れたところ、幸運にもその⼤学の学⻑、ライオネル・ボドゥー⽒と話すことができたのです。1週間後にもう⼀度電話を⼊れると、彼がホームステイ先を⾒つけてくれたばかりか、⾃治⼤学であるシンテグレスカ・カレッジで授業も聴講⽣として受講できるよう特別に⼿配してくれました。今、思い返してもただただ幸運だったとしか⾔えません。あの時に彼と話せなかったら、今の僕はないでしょう。

御存知かも知れませんが、居留地という所はとても貧しい所で、失業率はローズバッドの場合ですと80%近かっかたり、⾃殺率やアルコール中毒率は全⽶最上部に位置するような、とても僕のような⼈間を簡単に迎え⼊れてくれるような環境ではありませんでした。

そして実際、⽇々の体験で居留地の置かれている現状を実体験することになります。アルコール中毒や貧困、そして部族としてのアイデンティティー危機はとても深刻なものでした。

さて、ローズバッドには最初、6か⽉滞在しましたが、⾃由に⾃分の意志で動くための⾞もなかったし、その貧困さゆえに⻑期に滞在することは困難でした。そこで最終的には学⽣ビザを取得しインディアン⾃治⼤学に留学⽣として⼊り勉強しようと決意。ローズバッドの先⽣の勧めでモンタナ州はフラットヘッド居留地にあるサリッシュクーティニー・カレッジに⼊学する事になりました。

僕の本当のネイティブ社会との深い付き合いはモンタナから始まります。この⾃治⼤学で受講したアートクラスのひとつ「ビーズワーク」と、その講師であったジョアン・ビッグクレーンとの出逢いで、僕の⼈⽣は⼤きく変わってしまうのです、と⾔うのは⼤袈裟ですが、次回はいよいよビーズワークについてお話しようと思います。
国⽴アメリカンインディアン博物館
アメリカ⾃然史博物館

Profile : 船⽊卓也 / Takuya Funaki

1957年島根県松江市⽣まれ。1981年にNY でネイティブアメリカン⽂化に出会い、サウスダコタ州のローズバッド・スー・インディアン居留地へ移住。ネイティブアメリカン学を1年間学んだ後、モンタナ州・フラットヘッド・インディアン居留地にあるサリッシュクーティニー・カレッジに留学。居留地滞在中にインディアンフルートを習得。またサリッシュ族の伝統芸術家、ジョアン・ビッグクレーンにビーズワークを師事する。帰国後、98年にサイト・アースロッジを開設。現在アメリカ、テキサス在住。
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